巡る 境内案内マップ マップ上のイラストをクリックすると詳細をご覧いただけます。 本堂 明治28年7月に現在の8間4面の本堂が完成されております。建設当時の記録を紐解きますと、材木の買い付け、大工の選定などすべて住職・ご門徒さんの手によってなされており、当時の大変な苦労がしのばれます。その後、昭和初期に内陣の金箔が施され、そして平成元年からおよそ3年の歳月を費やし、平成の大修復工事(屋根葺き替え・内陣修復)がなされました。それぞれの時代の熱意と苦労がこもった建物です。 親鸞聖人像 | 聖徳太子堂 聖徳太子堂 明治初年 鈴鹿郡深伊沢伊船より菅原神社に建立されたが、廃仏毀釈により取り壊され、これを譲り受け再建このお堂に収められている聖徳太子像は、第17世一専が信州巡回の際、善光寺如来堂前の勝軍木を彫刻したものである。甲冑を身に着け弓箭を持った姿をしており、用明天皇2年(587)に崇仏派の蘇我馬子と廃仏派の物部守屋が戦った丁未の乱に参戦した聖徳太子のいで立ちを表しているとされています。 聖徳太子像 当山17世一専師が慶応3年(1867年)本山の命により、信濃国巡回の際、善光寺において如来堂前の勝軍木を拝受して彫刻されたもので、甲冑を身に着け、弓箭を持った姿をしており、用明天皇2年(587年)に崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋が戦った丁未の乱に参戦した聖徳太子のいで立ちを表しています。 阿弥陀如来立像 木造・彫眼・漆箔・像高92,0センチ 霊亀の上に乗る珍しい阿弥陀如来立像である。体幹部の大半を一木から彫成し、面部、両手先,両足先を矧ぎ付ける。後頭部に著しく朽損しうた箇所が認められ、面部に別材を矧ぎ付け修復したものと思われる。肩がやや張り厳つさを感じさせるが、薄く平たい体躯の形成は、平安時代後期に遡ると考えられる。(四日市市立博物館・四日市の文化財より引用) 太子堂堂内 八角堂の堂内には、正面に聖徳太子像、向かって左側に阿弥陀如来立像、向かって右側に一専師絵像を奉懸しています。 本堂 | 合葬墓 合同墓 近年の家族制度・生活スタイルの変化等で、お墓を持たない方、お墓を継承するのが難しい方などの悩みにお応えすべく、2017年に建立いたしました、永代護り継がれるお墓です。寺院駐車場に合同墓が建立されておりますので、車椅子でもお参りいただけます。納骨方法は個別の骨壺で納める方法、合葬する方法、ご希望であれば、法名銘板を設置できます。それぞれに応じて費用が異なりますが、年間管理費はかかりません。詳しくは、当寺院へお問い合わせください。 法要・葬儀についてはこちら 聖徳太子堂 | 山門 山門 合葬墓 | 書院 書院 山門 | 鐘楼 鐘楼 書院 | 親鸞聖人像 親鸞聖人像 鐘楼 | 本堂 羽津地区情報 羽津地区は、古くから都と東国を結ぶ交通の要衝でした。そのために、天照大神を奉じての倭姫命の伊勢巡幸、壬申の乱の際の大海人皇子の東国行、聖武天皇の東国巡幸など当地を経由したとされる事績が史書に残されています。江戸時代には東海道が整備され、参勤交代や伊勢参りで賑わいました。現在においても、国道1号、国道23号、近畿日本鉄道名古屋線、JR関西線などが通り、交通の要衝であることは変わっていません。こうした立地条件ですから、かつて当地を通り過ぎていった人たちの足跡がそこかしこに残されています。(羽津ふれあいマップより引用) 糠塚山(ぬかづかやま)壬申の乱(672年)にこの山上で大海人皇子が戦勝を祈願して天照大神を平伏遥拝したことから額突山と呼ばれたのが訛化したしたものです。又、浄恩寺山とも呼ばれています。 久留倍官衙遺跡(くるべかんがいせき)朝明川と海蔵川とにはさまれた丘陵の東先端部に位置しております。聖武天皇の東国行幸、壬申の乱の舞台であったといわれています。 こちらから周辺案内マップがご覧いただけます。 きんてつハイキングMAP